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当神社の旧称である客人大権現(まろうどだいごんげん)についてご紹介します。

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江戸時代の白髭神社 :

 白髭・八王子・客人権現合社村ノ鎮守ナリ

 当神社は、江戸時代には「葛西の客人(まろうど)大権現」として江戸市中から多くの参詣者が訪れたと伝えられています。

 客人(まろうど、まらひと)とは、元来は稀に来訪する神さまの意味で、神さまを丁重におもてなしすることが福を授かることに通じます。

  権現とは、仏さまが仮に神さまの御姿で現れたもの、という意味で、当時はたいへん尊い神仏に対して使われていた呼び名ですが、いわゆる本地垂迹説に基づく呼び方であったため、明治維新の際、神仏判然令に基づいて見直されました。

客人大権現を崇敬した人々:芝居茶屋・遊郭・料飲業・・・接客業に”千客万来”をもたらす神さま

 客人大権現は、不思議なことに名所案内や地誌で詳しく取り上げられることはありませんでしたが、境内に残る奉納物等から、江戸市中からの参詣者は、多岐にわたるグループからなることがわかります。
1 遊郭関係者
 文化年間(1815年頃)の紀行文には次のように伝えられています。

 「信仰の徒も多いが、殊に郭町の者が足を運ぶと見えて、新吉原の轡屋(置屋の意)、千住・小塚原・大塚音羽町・深川常盤町・深川やぐら下などの端々の者どもが講を取り結んで参詣している。伝えられるところでは、ご神体は自然の男根石であるが、秘し拝めて社に安置されているらしい。信仰の婦女は縁結びなどの願いがかなうので日を追い繁栄している。世上に聞こえた名妓までもが心心に絵馬を捧げている。」(『十方庵遊歴雑記』より)

2 文人サークル
 境内に残る「客人大権現道」と記された6基の道標を揮毫したのは京山人は別名を山東京山といい、戯作者として著名な山東京伝の弟で、本人も戯作者であると同時に篆刻家としても活躍しました。また、道標を刻んだ石工の窪世祥は、山東京山をはじめ、当時の文人墨客の撰文・揮毫したものを刻字した作例が多く、狂歌連・俳諧連との交流も考えられています。
 こうした背景から、道標を奉納した日本橋北鞘町の岡本屋長左衛門と倅同裏河岸清次郎は、江戸の文人サークルの一員もしくはパトロンで、サークルで交流のあった文人である京山人に依頼して、道標を奉納した可能性が指摘されています。


4 料飲業関係
境内に嘉永年間(1850頃)に「鰻最寄」から奉納された石灯籠があります。これは、江戸市中の鰻屋の講中から奉納されたもので、浅草・神田・日本橋茅場町・銀座などで鰻屋を営んでいた商人たちが商売繁昌を願って奉納したものと考えられます。奉納者の中には、外神田明神下の神田川のように、今も老舗として有名なお店も含まれています。
 6項に掲げる芝居茶屋の関係者も料飲業のひとつといえます。


5 商人・仲買人関係者
 本殿前の狛犬は、安政3年(1856)に尾州御国産油仲買中・水戸御国産油仲買中から奉納されたものです。発願主の一人である駿河屋半兵衛は、深川の炭薪仲買人であるらしく、他に境内に残る石柱に刻された奉納者の世話人にも、同じ深川の炭薪仲買人がいることから、炭薪仲買人をはじめとする深川地区の商人から崇敬を集めていたことが想定されています。

6 芝居関係者
 江戸時代後半に江戸町奉行所から歌舞伎興行を許されていた芝居小屋は、中村座・市村座・森田座の三つで、これを江戸三座といいます。このうち、当神社には森田座以外の二座の関係者からの奉納物が残されており、殊に市村座のあった日本橋葺屋町と浅草猿若町の関係者からは灯篭、額、経文、御神鏡などの奉納物が残されています。

 文久2年(1861)に奉納された御神鏡の奉納額には、主に芝居茶屋関係者約50名が名を連ねています。この奉納額は、裏面に「千客万来大々叶(せんきゃくばんらいだいだいかのう)」と願意が記されています。

客人大権現のご神徳・ご利益

 一般に、客人大権現への崇敬は「客人」という表記や「まら」という語呂に基づくものだといわれています。しかし、単なる語呂合わせだけで、長期間にわたり崇敬を集めたわけではありません。

 神社に残る客人大権現縁起や勧進牒の版木には、「諸人愛敬、商売繁昌、芸能上達」などのご神徳が掲げられています。

 諸人愛敬(万人から愛され敬われる)、あるいは芸能上達といった接客をを生業とする人々にとってはたいへんありがたいご利益をもたらしてくださるという信心から参詣し、ご利益が叶ったと感じた人々がそのことを伝えてきたために、口伝だけで長期間にわたり崇敬を集めてきたのだと考えられると思います。

 また、当社のご由緒として、家宣将軍の側室左京局が当神社への崇敬に基づき家継将軍を授かったことから、子授けや花柳病にに霊験ありとして万都の人気を呼んだと伝えられていますが、これもほぼ口承されてきました。子宝に恵まれない、または花柳病を心配しなければならない参詣者にとっては、その信心や参詣の動機は公然とは伝えにくいものであったのであったかもしれません。
 大正期までは、お忍びでお参りに来た遊女のような、地味ないでたちながら艶やかさの漂う女性が楚々として参詣していた、という類の話が語り伝えられています。

 客人大権現は、「だれでも知っている」わけではないが「知る人ぞ知る」お社、あまり公式には伝えられなかったが、霊験あらたかと感謝の気持ちを抱いた人々がそれを口から口へ伝承してきたたお社、であったのかもしれません


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